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斜め30度の世界


冷静でいられない。
昨年末に七日目の殺人者を書かなければというある種の強迫観念に駆られてから今までずっとそうだった。
どうにもおかしい。
おかしいのが自分なのかそうでないのかがわからない程度にはおかしい。
起こっていたはずのことが、起こっておらず。
自分の記憶と周りの認識がかみ合わない。
かみ合わないと、少しずつあせってくる。
自分がおかしいのだろうか?
七日目の殺人者を書いているときは、なんとか自分を保てていたけど。
それもそろそろ危ないかもしれない。
でも、こうしてまだ文字を書いているところを見るとまだいけそうだ。
でも、なんで自分の記憶と周りの記憶が合わないのだろうか。
それなりに新聞やニュース、ネットなど情報には気を使っているつもりなのだけど。
なんか昨年末からどうにもおかしい。
誰かこの感覚が分かる人はいないだろうか。
助けてほしい。
薬がないと夜も眠れなくなるくらいには混乱している。
それでも、働かないといけないから働くけれど。
でもやっぱりおかしい。

とりあえず、続編書いてます。
生存報告までに。
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テーマ : 雑記
ジャンル : その他

野球のお話


 野球が好きです。するのはかれこれ10年以上してませんが。
 もっと言うと観るのが好きです。
 球場に足を運んでみるのも乙ですが、以外にもテレビ観戦のほうが私は好きです。
 出来れば専用チャンネルをとりたいくらいに好きです。

 ID野球というものができ、野村の眼というコーナーが一時期ありました。
 私はあれに偉く感動させられました。
 とにもかくにもキャッチャーのリードというものを研究したくなって一時期はまっていました。
 
 世の中パワプロやプロ野球スピリッツみたいにうまくいけば楽なんでしょうが、そうはいかないのが現実の野球の面白さ。テレビの前で酒を飲みながら、晩飯をつまみ代わりに配球を読むのがとても好き。

 野球好きなら一度はやったことありますよね?
 2アウト2,3塁で2-3フルカウントでの決め球予想はとても楽しい。満塁ならもっと楽しい。
 良い打者を相手にした時の初球の入り方を研究するのはもっと楽しい。
 捕手目線で野球を見るととても面白いのだが、周りからはあまり賛同を得られない。
 面白いのに。
 
 あと、中日の試合は割と好き。谷繁出場時はリードをどうするのかチェックしている。
 あと荒木井端が全盛だった時はポジショニングのチェックとかも割としていた。
 これがまた面白い。

 サッカーも研究したら面白いのだろうけど、まだ野球への飽くなき研究は終わることがなさそう。

 皆さんはなにかスポーツ見ますか? 

テーマ : 野球全般
ジャンル : スポーツ

機械工場と夢のお話


 さて、皆様の夢はなんでございましょうか。

 夢というものをまだ持っておられる方はいらっしゃいますか。
 
 つい先日、ある方に夢の有無について尋ねられました。

 年齢は私の倍くらい。そうですね、分かりやすく言えば人生を半分以上終えてる方に尋ねられました。

 何分、今現在の私は精神的に不安定なもので、その質問すら意味が分からないでいたのですが……。

 最初は睡眠時にみる夢の話かと思い、会話をしていたのですがどうにも合わない。

 どうやら、いわゆる将来なりたかったものという意味の夢だったようです。

 私はそういう話をすることが嫌いです。

 と言いますのも夢について語ることを許されているのはそれに対して努力をした、もしくはしている人間のみだと思うからです。もちろんこれは勝手な思い込みですが。

 ですから、勝手に夢を持つのは自由だと思っていますが他人に口にすることは嫌いであります。

 嫌いというよりは自分の中のルールで許されていないというほうが正確でしょうか。

 相手の方は専業主婦(夫)になりたかったようです。

 私は、夢をもったことがないという回答をいたしました。

 正解でもあり、不正解でもあると思います。

 子供のころであれば、夢はもっていたことでしょう。

 ただ、少なくとも僕はその夢に対して努力をした覚えもありません。

 漠然と小中高校を終え、運が良ければ大学に行き、サラリーマンになるのだろうというある種の計画に近いものを描いていたことはあります。

 ただそれは多くの方がどの時点かで行うことでしょう。

 私はそれが小学校の二年生だったというだけです。

 なんのことはありません。自由にならないことを知ってしまったからです。

 それからというもの、逐一親に尋ねていた時期がありました。

 夢が実現できるのかどうか、実現するにはどうするのか。

 そのたびに見える親の少し悲しそうな顔。

 今でこそ、その意味がわかりますが、子供心にそれはとてもショックでした。

 そういうことか、と諦観を覚えてしまったのが良くなかったのでしょう。

 そこで努力できるかどうかだったのだと思います。

 私がしたことといえば、つまらない計画に従って行動していただけです。

 提示される課題をこなしてさえいれば、道は自動的に開けていきます。

 そういう意味で日本は素晴らしい国であると思います。

 難しいものです。環境によって夢というものはかなえられる可能性が大きく変わります。

 どの環境にいてもゼロではありません。少なくともゼロではありません。

 しかしながら、18歳まで、いやよく言っても22歳前後までで人生の多くの可能性は終結すると思います。

 終結という表現はよくないな。一定の諦観を持てるようになりますと表現すべきか。

 どの時点でも可能性はあります。しかしながら、少ない可能性に賭ける決意を持てる環境がなくなっていくのです。

 それが出来たのが子供の時点。

 大人という服を着せられたが最後、責任と外聞と守るべきものが出来てしまいます。

 ましてやこんな世の中で、正直私は今子供である方たちが不憫でなりません。

 そしてこれから生まれてくる子供たちにも同様でしょう。

 もちろん、幸せになれる可能性はあるでしょう。

 戦後のほうが大変だったとおっしゃられる方もいるでしょう。

 戦前だって大変だった、就職氷河期時代だって、バブルがはじけた後だって。

 大変だったのでしょう。

 ただ、誰か理解しているのでしょうか。

 この日本という国がどれくらいもつのでしょうか。

 どうにも、最近の情勢を見ていると懸念事項が格段に増えているように見えます。

 そして、経済的にも福祉の面でも、他国の情勢をみても。

 いつ、リセットボタンが押されるのか不安でなりません。

 こんな世の中で、夢を持てというほうが酷だと思うのです。

 子供たちは現実を知っています。

 昔の子供たちよりもきっと賢いのでしょう。

 賢いがゆえに地に足をつけたがるのだと思います。

 そして、それが正しいように見えてしまう。それが、とても悲しい。

 多くの人間が幸せを願って、発展を願って今を作り上げてきたのに。

 いつの間にこうなってしまったのか。

 日本という国は、国民の力で一つずつ夢を実現してきたのでしょう。

 科学と、経済の発展をもって。

 しかし今は、そうは見えません。

 現実的に、科学はまだ発展しています。経済だって、発展可能性はゼロではないでしょう。

 しかし、今の日本は発展可能性をつぶしていくことで、なんとか形を維持しようとしています。

 どうにもならないのでしょう。

 きっと国を挙げて、燃え尽き症候群にかかっているのでしょう。そしてそれが末期に来ている。

 ただ、それだけなのでしょう。

 

 夢をお話しください。

 夢ですか?

 そうです。貴方の夢です。

 それを話せば、救われるのですか。

 救われはしませんが……。

 夢ってなんですか。

 それを知りません。

 辞書を引けば意味は分かると思います。

 でも、夢っているのは空想上のものでしょう?

 現実にはないじゃないですか。
 
 何より、語るべき夢を持たせてくれましたか。

 あぁ、自分からもたないといけないんでしたね。

 今はそうなっているんでしたね。

 昔もそうだった?
 
 これは失礼いたしました。

 でも、夢持ってないんですよ。すいません。

 

 誰かの手で、静かに、気づかれないように。

 気がつけばその夢は消えていた。

 もっていたのは人生の設計図。

 綿密にスケジュールは組み立てられていて、一度崩壊したら止まりそうもない。

 一度歩みを止めてしまえば、それを取り戻すのは至難の業で。

 誰もが遅れないように、早歩きで歩いている。

 そんな光景を見るのが時々嫌になる。

 みんなどこに向かっているのだろう。

 目的地は見えているのだろうか。

 どうして、だれも立ち止まらないの?

 立ち止まらないと見えないものだってあるはずなのに。

 大人はそれを知っているのに。

 どうして、それを見せてくれないの。

 
 それを人はわがままという。

 己が手で、つかめという。

 今の今までそんなことを言わなかったのに。

 きれいにレールを敷いておきながら、夢をつかめと貴方は言う。

 そして、レールから外れないように圧力をかけていく。

 何がしたいのだろうか。

 どうしてほしいのだろうか。

 分からない。分からないよ。

 

 でも、それでいいのだ。

 斜めに構えて、地面が30度傾いて見えていても。

 安心して。

 周りにはそれは分からないから。

 貴方だけの世界が歪んでいるの。

 周りは幸せに終わっていくから。

 だから、安心して。

 安心して、終末を迎えなさい。

 終末までたどり着きなさい。

 地べたを這いつくばって、上からの圧力に耐えながら。

 次第に増えていく重りにも耐えながら。

 終末まで踏ん張りなさい。

 私たちが望むのはそれだけ。

 それだけなのよ。

 だから、耐えなさい。

 それのみが、貴方を救うのだから。

 

 なんて催眠。

 なんて面白い。

 機械工場にでもなっている気がするよ。
 
 

テーマ : 雑記
ジャンル : その他

夢と現実

 ふと、痕とEVEを思い出した。
 
 90年代を代表する?Leafのビジュアルノベルゲーム、そしてC's Wearの作品である。

 今ではリメイクもされ、一般向けとしても売られていると聞く。

 一般向けのほうはしたことがない。初期の作品をしたことがあるだけだ。

 EVE~burst error~を皮切りにしてPCゲームというものに向き合うようになった。

 というよりは依存という表現が適切であるかもしれない。

 もちろんPSや64などの『ゲーム』もしていたのだが、時間数にしてみればやはりPCに依存していたという表現が適切と推測される。

 後にアリスソフト、ソフトハウスキャラなどのゲーム性の高い作品にも手を出しているのだがそこは割愛。

 なぜ、痕を思い出したのか。

 今でも梓は大好きだし、印象に残っている作品としてあげられる。

 だが、痕よりも印象度の高い作品は後に作られていると思うし、多くのその手のゲームをする人間から話を聞けばいくらでもあげてもらえると思われる。

 だが、自分がこうして作品を作るようになった時思い出したのが痕とEVEであった。

 だが僕の作品にはそれらの形跡とかは見受けられないと思う。

 もちろん、僕も何年も前にこれらの作品をモチーフにして一つの作品を作りたいと模索していた時期もあった。

 つまるところ、大きな影響を受けていたのだ。

 ただ、いざ取り掛かると作れない。

 もちろん、そういった作品に似せることはできても何かが違うと手が拒否をするという感覚である。

 これがどうしてなのかは分からない。

 二次創作といったものもあるのだが、それすら作れない状態であった。

 そういったものを読むことは好きであったし、嫌いになることはない。

 ただ、作り手にはなれなかった。

 しかしながら、こうして作品(そう呼べるかは懐疑的ではあるが)を作ってみて感じたのが、おそらく根幹にこの二つの作品が存在しているなという感覚である。

 表立っては出てこないが、これらが根っこに住みついているという変な感覚が確かにあった。

 もちろん、他の作品の影響を受けることもあるのだろうが、根っこがそれということには変わらないと思う。

 不思議なものだ。

 いろんな小説や、漫画、ゲーム、TVを経験として取り入れているのに、どうしてこれが根っこなのだろうか。

 それは多感な時期にそれをやったから、とかファーストインパクトとして記憶に強く残っているからなど様々な言い方は出来るであろう。

 だが、きっと単純に感動したのだろう。

 こういう言い方は適切ではないかもしれないが、転機にこういった作品が絡んでいたのが影響していると思う。

 振り返ってみて、辛い時、苦しい時、嫌な時、現実から目をそむけたい時。

 こうしたときに僕が何をしたかというとパソコンに向かっていたのだ。

 小説でもなく、テレビでもなく、家族でもなく、友人でもなく。

 作品を購入し、家に帰り、インストールして、黙々と楽しんでいた。

 きっとそれははた目から見れば不健全なことであろうと思う。

 ただ、そうしなければやりきれない時があったのもまた事実だ。

 誰にも言えないこともある。誰にも頼れないときもある。

 誰かに言ってことがすむならそれでもよかった。

 だがそうならないことのほうが多いのだ。

 背中を押してくれる人間がいれば、よかったのかもしれない。

 でも、それすらいなければ、どうすればいい?

 そう言って、作品にのめりこんだ。

 ただ、作品について誰かと語りたいとかそういうことはないのだ。

 月姫、Fate、Kanon、ランスシリーズ、YUNO、雫、うたわれるもの……etc

 有名どころばかりだが、前述した作品やこれらの作品がなければ僕はこうしていることすら叶わなかった。

 悪いことばかり言われる世界ではあるが、感動や、背中を押してくれる何かがあることもまた事実である。

 まぁ、ぐだぐだになってしまったのだが、結局のところこの2作品が自身の大きな転換期にした作品であり、同時に記憶に染みついているということが事実である。

 とくにこれで何かを言いたいわけではない。
 
 訴える主題的なこともないし、まさに雑記である。

 思ったことを書いただけ。

 でも、似たような感覚を持っている人もいるのではないだろうか。

 現在、業界にとってもユーザーにとっても厳しい現状であることは認識しなければいけない。

 しかしながら、これが表現の一手段として成立していることも事実だと思う。

 望むなれば、やさしい結末になることを切に祈るばかりである。




テーマ : 雑記
ジャンル : その他

その温もりを 後編

 土曜日の朝が来た。結局僕はいつ彼と別れたのか思い出せないでいた。気が付けばスーツを脱いでいたし、気が付けば風呂場にいたし、気が付けばベッドで眠っていた。いつ彼との会話を打ち切ったのか、思い出せない。
 
 いや、違う。覚えている。抉られた傷を見たくないだけだ。それを見てしまうととても辛いから。だから、目を逸らし続けることが、ここで生きるために必要なのだ。でも、それは永遠ではない。
 
 いつかは、それと向き合わないといけないのだ。

 
 「なにが、違うんだろう」

 
 前髪がうっとうしい。最後に散髪したのはいつだったか。いい加減、こっちでも行きつけを見つけないといけない。いつまでも、子供のままではいけないのだから。だれも、それを許してくれないのだから。

 
 「誰かに、許してくれたら子供でもいいのか?」

 
 それは、違う。子供と言う枠組みは、生きていれば必ず捨てざるをえない。その枠は狭すぎて、いつか必ず壊れてしまうから。いや、狭いのか? 大人の方が広いのではないのか? それならどうして、捨ててしまったのだろう。捨てていいないのか? 大人の枠に移るために、必要な形に変換してしまったのだろうか。
 
 向き合っても、答えは見えない。答えをみつけないまま、境界の先へと来てしまった。僕も、僕と同じような人も。そして、彼はまだ境界の向こう側にいる。だから、その感情を理解している。言葉にすることができないだけで。感覚として、どういうものかを知っている。僕らは、言葉にする力を持っているのに、言葉にできない。感覚を、忘れてしまっている。

 
 「なんで、社会に出たんだっけ?」

 
 自問自答を繰り返す。そうしてどんどん深みにはまっていく。自問しなければ良いのに。それをしないだけで、延命できる。長く、不感症でいることができる。何も感じず、何も思わず、ただあり続ければいいのだから。それはある意味で間違いではないと思うのだ。ただ、僕がそれを受け入れられなくなってしまっただけで、間違いなんかではきっとない。
 
 それこそ、彼に出会わなければ考えることなんてなかっただろう。気が付けば今日が終わっていて、気が付けば明日が訪れていた。そうして今日をやり過ごし、明日におびえるのだ。明日が終わればまた明日が来て、朝なのか夜なのか感覚を失っていくのだ。
 
 もしかしたら、大人になることは広くなることではないのかもしれない。身体が大きくなって、経験を積んで、ただそれだけなのかもしれない。経験という積み重ねが大きく感じるだけで、子供の方が大きかったのかもしれない。経験を積む代わりに、いろんなものを削っていって生きている。目に見えるものも、目に見えないものも。削って生きている。こんな感覚は幼少期には持っていなかったし、学生時代も持っていなかったかもしれない。大人になって、社会に出て、初めて感じたものだった。

 
 「なんで、社会にでたんだっけ」

 
 御託を並べてみても、思い出せない。どうして僕は社会に出た。最初は、家が嫌だった気がした。自分で金を稼いで、自分で自分を養うことができるようになりたかったはずだ。でも、そんなことみんな考えるはずだし、それこそ大人になるっていうことだと思うのだ。親からの独立が、必要条件だったはずだ。
 
 でも、よく考えてみれば独立していなくても、社会に出ているやつもいる。彼らは大人じゃないのかな? いや、それは暴論だ。あまりに一面からしかモノを見てなさすぎる。
 
 ただひとつ言えるとすれば、僕はその一面だけに縛られて、社会に出ることを大人になることと思ってしまっていたのだろう。大人に、なりたかっただけなのだ。

 
 「大人なれば、か」


 寝返りをうつ。胸がつかえているような変な感じがする。

 僕は大人というものに幻想を抱いていたのだろうか。大人になれば、いろんな感情から解き放たれて、苦しくなくなるというありえない幻想を。たしかに大人になれば感情が希薄になると思う。でも一度知ってしまったものは、押さえつけることはできても、除外できるものではない。そのことに、もっと早くから気が付いていればよかったのだ。


 「でも、独りが嫌なわけじゃない」

 
 矛盾、なのだろうか。独りは好きだし、それを不快に感じたことはない。もちろん、誰かと一緒にいることが極端に嫌いであることもない。だから独りであることが、『さみしい』の正体ではない気がするのだ。
 
 
 「独りは好きだ。孤独は、嫌いだ」

 
 独りになりたいのに、群れには属していたい。その矛盾感が正体なのだろうか。群れに、居たいのだろうか。それも違う気がする。群れの中では、僕は決して役がない。いや、役はあるがそれを演じきれないのだ。精進すればいいのだろう。役にはまるように、努力を積み重ねていつか役にはまるようにすればいいのだろう。
 
 でも、そうして得た役に意味があるのだろうか。意味なんて求める方がおかしいのかもしれないけど、どこか違和感がある。そうすることで、この感情の整理ができるとは到底思えなかった。もちろん、それを実践した。実践なされなければ、仮定でしかない。実践しても、結果役がわからなくなってしまっただけだった。ただのサラリーマンである僕に、求められる仕事をこなし、日々を謳歌する以外何がある。目の前にある役を追うだけでは、意味がない。恋人に感情の埋め合わせを求めることも、出来なかった。
 
 あぁ、目がさめれば、子供のころに戻っていればいいのに。そうすればこの正体が分かるかもしれない。こんな考えを巡らせなくても、いいかもしれないのに。
 
 でも、現実はそうならない。
 
 そうは、ならないのだ。現実はいつも喉元に鋭利な刃物を突き付けてくる。時間という刃物で持って、襲ってくるのだ。


 
         ◆


 
 「おにいちゃん。こたえわかった?」

 
 それは夕刻だった。珍しく残業がなく、飲みに誘われることもなく、接待することもなく、上司の機嫌も良かった。幸運がいくつも重なって訪れた夕刻だった。
 
 彼は、僕の背中に問いかけた。振り返らないことを知っているかのように。

 
 「それは、僕が失ったものだ」

 
 小さくつぶやく。喉の奥から吐き出すようにその言葉は紡がれた。
 
 認めたくないだけだった。他人の幸せを認めることほど、労力を割かれることはない。ましてやそれが、自分が失ったものだというのならなおさらだ。

 
 「そうだよ。おにいちゃんのてのひらからはなれていったものだよ」


 やっとみつかったね。彼はそう言ってにっこりと笑った。もちろん、僕はそれを確認していない。背中越し、だから。僕らは、目を合わすことはできない。あの出逢った日が最初で最後だったのだ。


 「認めたくなかったんだよ。自分が不幸だってことを。鳴らなくなった携帯電話に、届かない電波。遠く離れた場所にいて、つながっている気にさせるこの機械がとても腹立だしい」


 僕が探していたのは、母親であり父親であったのだ。何のことはない。ただそれだけの話だ。そして、もう二度と会えない人だ。

 携帯にアドレスは残っていても。履歴があっても。留守番電話の音声が保存されていても。二度と、会えない人たちだ。


 「なぁ、俺は間違っていたのか? どうして、今になって親に会いたいって思うんだよ」


 答えはない。声は返ってこない。それでも僕は続ける。


 「別に誰にも代償を求めるつもりはないよ。独りでいいし、これからもそれを続けていくつもりだ。それなのに、それなのになんでこんなに空虚なんだよ」


 背中に、小さな手が添えられる。彼は、まだ答えない。


 「生活の中で、何一つ変わらないんだ。明日も今日の焼き増しだ。同じことを繰り返して繰り返して繰り返して、そうして今日をやり過ごしていくだけだ。別に、そこに親は入っていない。社会に出てから、関係なくなったはずなのに」


 無意識に、手に力が入っていた。握りしめた手のひらからは血が滲み、少しだけ痛みが腕を走った。でも、それすらも気にならない。血が流れるなら、流れればいい。それで空白が埋まるなら、いくらでも流そう。

 でも、埋まらないことぐらい知っている。


 「年に何回か電話かメールして、たまに実家に帰るだけだった。それだけだったんだ。それだけなんだ。その代わりに、今までと同じ日常を繰り返すだけでいい。それだけなのに」


 背中の手に小さく力がこもる。なぜだか、その手がとても恐ろしく感じた。ただの道路の上なのに、まるで崖にでも落とされるかのような感覚を想像させた。


 「なにも、まちがってないよ。そのとおりだよ」


 彼はそう言い切った。言葉は続く。


 「げんじつとして、そうなる。かえるばしょはなくなって、かえるところはきえていった。のこるのは、それをうけいれるかどうかというげんじつだけだよ」


 受け入れなければ、生きていけない。親の死を、直視できないわけではない。いつか来ることは予測出来ていたし、通夜葬式だって、長男としてきちんと見送ったはずだった。せいぜい思ったのは、僕の代で血が途切れるかなって感じたくらいだ。


 「にんげんはむれることでつよくなれる。よくもわるくもつよくなれる。でも、いまはむれることをしなくなってる。いや、むれているのに、そのげんじつをうけいれることができないでいる」


 背中の手にさらに力がこもる。この小さな体のどこにそんな力があるのか。でも、僕の体は動かない。むしろ、このまま振り向いて彼と面と向かって話せたらどれだけ楽かと思う。でも、それは許されない。


 「にんしきしているのにうけいれない。それがつづいていくことで、すこしずつはぐるまがずれていく。いとなみはつづけられても、こころがおいつかない。すこしずつ、からだとこころがはなれていく。おにいちゃんがいるのは、いまそこだよ」


 心と身体が離れていく。たしかに、言われてみればそんな感じかもしれない。感覚だけが浮き上がっている感覚。


 「このままずれつづけると、いずれからだがひめいをあげるはずだよ。そうすると、もっとはなれていく。はなされていく。こころとからだだけではなくて、つながりもはなれていく。しゃかいとおにいちゃんとのつながりもだよ」


 現実的じゃない。それはまだ、仮定の話だ。起こり得る可能性は検討する余地があるが、あくまで、可能性が高いだけだ。確定未来じゃない。


 「ひとりでいきることはふかのうじゃないよ。でも、ぶんかてきなせいかつをしたいとねがうならふかのうだよ。ひとりとおもっているだけで、めにみえていないだけだから。いまのしゃかいでひとりでいきることはふかのうだ」

 
 背中に添えられる手が増える。両手で背中を押されている。それでもまだ、僕は動かない。


 「けど、めにみえないからげんじつとしてうけとめられない。そして、めにみえないままにしておくことはむずかしいことじゃない。しゃかいではたらいていて、それなりにひととのつながりをもっていても、れいがいじゃないんだ」


 彼は手で押すことを諦めた。でもまだ彼の抵抗は続く。背中ごと僕の背中に預けてきた。これでほんとうに僕らは対の存在になった。


 「ふしぎだとおもうよ。じかんがながれただけなのに、どうしてこんなにひととひととのつながりがきはくになったのだろうとおもう。すこしまえとおなじようにつながっているはずなのに、なぜかいっぽんがとてもほそくなっているんだ」


 それは誰のせいでもないと思う。気が付けばそうなっていたんだし、それこそ、みんなが望んだからそうなったんだと思う。


 「そうだよ。のぞんだんだよ。おおくのふしあわせなじょうたいでいるにんげんたちがのぞんでつくりあげてきたせかいだよ。しあわせであるじぶんをついきゅうしてこうなったんだ」


 その声は少しずつ細くなっていく。少し疲れてしまったのだろうか。でも、振り返ることはできない。


 「でもそれは、幸せなときを描いた絵だ。失うことを想定していない」


 そうだね、と彼は答えた。夕陽が沈み始めて、僕らの影もどんどんと細くなっていく。まるで、それがつながりの糸のように感じられて、ひどく不憫だった。


 「だから、これからはじまるのかもしれない。これからつくられるせかいは、ふしあわせもしあわせもしったおおくのにんげんたちがつくりあげていくせかいだから」


 相応の形に治まるのだろう。幸せを追求しすぎて、不幸せに対応できない世界。でも、僕にはそこまで考えが回らない。自分のことで精一杯なのに、そこまで大きく考えられない。目の前の不幸を裁くことで精一杯だ。


 「それでいいんだよ。うけいれなくてはいけない。そのでんわはならないんだ。つながりであったものはのこっていても、もうそれはつながりじゃなくなってることをうけいれないといけないんだよ」


 モノの豊かさの代償なのだろうか。ヒトを表すモノが存在していることで、忘れることを出来なくなっている。

 写真だけなら、まだ何とかなったんだろう。でも、声も残っている。ましてや、その声が長いことつながりを示すモノとなっていたのなら、錯覚してしまうのだ。まだ、残っている。つながりはあるんだ、と。


 「僕は、これから先も生きていくのか」


 ささやかな疑問。答えなんて分かりきっている。リオ君が言う答えなんて、当たり前のものなのだから。わかっているんだ。でも、理由が消えた。人生において、理由があったとすれば親のためだ。自分はない。もちろん、一時的な快楽は自分のためだろう。そこは否定しない。でも、子供の時から社会に出るまで、『親のため』だった気がするのだ。彼らが満足するように、彼らが笑うように、彼らが望むように。そうすることで生きてきたし、今がある。その理由が消えたのだ。僕の存在理由はどこにある。死んだとしても、何も残らないんじゃないだろうか。


 「おにいちゃんのぎもんにこたえはないよ。それすらもせんたくだから。たしかにふこうだとしかいいようがない。でも、それすらもれきしなんだ。うまれるじだいで、ばしょで、ちすじで、じんせいがかわるのはいつだってあるんだ。それをひていはできないよ」


 受け入れるしかない。答えはそこだ。足りないものはそれなんだ。理屈は分かっていても、受け入れられないでいた。なぜなら、立ち方を知らないからだ。つかまり立ちしかできないまま、立たされ続ける子供のようなものだ。立ち方を覚えるしか、立つ術はない。受け入れ方を覚えることでしか、生きる術はないのだ。


 「そうか。続くんだよな、まだ」


 「つづくよ。これからさきも、つらいことはある。めのまえがくらくなってたてなくなるときもあるかもしれない。まえもうしろもわからなくなるくらいのふこうがあるかもしれない」


  でも、続くのだ。そうした中でしか生きられないし、生きる場所はない。どこにいってもそれは変わらない。変わるとすれば、自分しかないのだろう。自分の中で、どこに折り合いをつけるかなのだろう。
 
 心配そうな声をしていた彼は、まだ言いたいことがあるだろうにそれを必死に我慢していた。全てを言ってしまっても、意味がないのだ。言葉では覚えないこともある。予備知識なしで、体感しなくては意味がないこともあるのだろう。


 「もう、だいじょうぶ?」


 その言葉に、集約されていた。これが最後だ。この背中の重みはもう、感じることができなくなるのだ。それも受け入れなくてはいけない。決別、しなくてはいけない。

 だから、僕は言葉を紡ぐ。


 「もう、大丈夫だ」


 その言葉を紡いだ瞬間、重みは消えた。背中に感じていた小さな温もりは消えていて、それが二度と感じることのできないものだということも受け入れることが出来ていた。


 「もう、迷わないよ」


 その言葉は虚空に消えて、聞き届ける者は誰もいない。沈みきった夕陽は、影すらも消していた。残っていたのは、うすぼんやりとしたカゲホウシ。背中あわせになっているカゲホウシだけだった。



          ◆


 
 その日はとても晴れた日で、休日にはとても適した一日だった。
 
 母親に手をひかれ、父親の運転する車に乗って僕はデパートに来ていた。
 
 目にするモノはどれも新鮮で、見たことのないモノもたくさんあった。

 一階にある化粧品屋さんの匂いが少しだけ苦手だったけど、母さんが好きなバックや靴を見たりするのは好きだった。

 父さんは地下が好きだった。食べ物のにおいが僕も大好きだった。母さんが買い物に夢中になっているとき、父さんと内緒でお菓子を食べに行くのが好きだった。

 でも、少し上の階に行ってスーツを見るのは不思議な気持ちだった。僕は父さんのスーツをそこでしか見たことがない。朝は父さんと会えないし、夜も僕が寝た後に帰ってくるから。

 そこで見る父さんは、とてもかっこよかった。

 ヒーローみたいなかっこよさではないけど、かっこよかった。

 それでも僕は子供だったから、おもちゃ売り場が好きだった。小さな車を集めるのが好きだったし、デパートにはそれが置いてあるのも知っていた。だから、つい独りで行ってしまった。握られた手を離し、上の階にあるおもちゃ売り場に僕は駆けだしていた。

 そのたびに僕は怒られるのだけど、内緒と言って母さんはおもちゃを買ってくれる。そして、また手を繋いで買い物に戻っていくのだ。

 疲れた僕は、後部座席で夕陽を浴びながら眠ってしまう。

 ようやく家に着くときに、母親に起こされるのだ。



 そんな、日常。

 どこにでもある、日常。


 いつか、だれかが夢見た世界。

 現実にそれは起こり、日常という劇場で上映されている。


 今もまだ、その日常は紡がれる。形は変わっているかもしれない。でも、中身までは変わらない。

 だから、僕らは忘れてはいけないのだ。形あるものが全てではないことを実感しないといけない。



 その温もりを覚えていて。


 それが、きっとなにかを変えていくのだから。





                                        END

テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

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HIO8

Author:HIO8
HIO-Re8です。
吐きだめです。
くらいです。
ほの暗いくらいがちょうどいいと。

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